マルコによる福音書には、まずバプテスマのヨハネが登場します。彼は、誰でも自分の罪を告白し、洗礼を受けるように勧めました。罪の告白は、それまでのユダヤ教にはない新しいものでした。古くから行われていた浄めの習慣と、旧約聖書のさばきと贖いの預言が、ヨハネによって結びつけられ、イスラエルの救いを待ち望んでいた人々の心を捉えたのです。
ヨハネの評判はナザレにも届きました。イエスさまは、ナザレを出てヨハネのもとに行き、ヨハネから洗礼を受けられます。罪を告白し、悔い改める洗礼を、よりによってなぜイエスさまがお受けになるのか。そんな必要は全然ないのです。イエスさまは人間の救いのために、御自分も人間の一人となって、この世界に生まれてこられました。徹底的に罪人と同じ立場に立つために、洗礼を受けられたのです。洗礼を受けて公の活動に踏み出されたイエスさまの行き着く先が、十字架です。
イエスさまが水から上がられると、「天が裂けて、霊が鳩のようにご自分の中へ降ってくるのを」ご覧になりました。天と人間を隔てるのは、人間の罪です。それが神さまの側から裂かれた。神さまから離れてしまった人間を、どんな犠牲を払ってでも取り戻そうとする、という神さまの極めて強い決意をあらわします。同時に、「霊が鳩のように」降ってくるのを御覧になりました。聖霊が与えられたことは、神さまがイエスさまの受洗を御心に適うものと受け止め、これからイエスさまが歩まれる道のり、人間の罪の贖いのために十字架に向かわれることが、まさに神さまの御計画の実現である、ということを確認してくださったのです。
洗礼は、古い自分が死んで、神さまのものとして新たに生まれることです。水に沈められ、そこから立ち上がらされる、という一連の動作は、このことをよく象徴します。洗礼は、一人の人が、神さまと共に歩む、という決断を与えられる出来事です。それが、イエスさまの十字架と復活、人間の罪からの救い、という巨大な出来事に、わたしたちを結びつけます。イスラエルの人たちは海を通って、わたしたちは洗礼の水を通って、救いへと入っていくのです。この場面には、父、子、聖霊の三位一体がすべて揃っています。神さまは、人間の歴史に具体的に介入し、人の目に見える仕方でその働きを示され、救いの御計画の大きな一歩を進めてくださいました。
そして、天からの声が「あなたはわたしの愛する子、私の心に適う者」と宣言します。イエスさまの御生涯において、天からの声が語られることは3度ありました。洗礼の時、山上の変貌の時、そして受難の直前の時です。この言葉は、詩編第2編と、イザヤ書42章を引用している、といわれます。詩編の方は、御子が新しい王として即位されるのを祝う歌。イザヤ書は主の僕の歌です。僕が王である、というのは矛盾しています。この御方は主の「僕」、主が「選び、喜び迎える者」です。イエスさまが聞いた「私の心に適う者」と言う言葉は、文語訳聖書では「わが喜ぶ者」と訳されていました。イエスさまは僕として、神さまに従順に、それも十字架の死に至るまで従順に仕え通されます。この御方は、「叫ばず、声を上げず、巷にその声を響かせない」「衰えず、押しつぶされず、ついには、地に公正を確立する」御方です。このようなことはほかの誰にもできません。この頃ユダヤを治めていたローマ皇帝は、「神の子」を名乗り、世界で一番富も力ある存在でした。しかし、イエスさまを救い主と信じる人たちは、飼葉桶に生まれ、十字架に死なれ、復活して天に昇られた御方こそキリスト、神の子である、地上の権力者でなく、この世の富も権力とも縁のないこの御方こそが、まことの主、支配者なのだ、と主張したのです。これは、当時の社会に対する強烈な異議申し立てでした。わたしたちの社会でも、強い者は弱いものを黙らせ、有無を言わさず踏みにじります。この世はそういうもの、と諦め顔でいうのが大人だ、とされている。そんな中、罪人であるわたしたちのためにいのちを棄てられた御方を、わたしたちは救い主として仰ぎます。イエスさまはいつも、私について来なさい、と招かれます。この御方がそうであったように、わたしたちもまた、隣人に仕えて歩む道を行くようにと示されているのです。
高根祐子